初めて会ったときから、彼は掴みどころのない性格だった。
いつも笑みを浮かべているのに、それが本心でないことを幼心のうちに気付いていた。薄っぺらい笑みの後ろに何が隠れているのか――は知らない。物事を楽しんでいるから笑っているのか、それとも否なのか、それすら分からない。
ただ声を立てて笑うのではなく、常時、貼り付けたような笑みを浮かべている。それだけがまだ幼い時の記憶に深く貼りついている。
まるで瞬間接着剤のように、忘れようと思っても忘れられない、あの笑み。
――彼はいつまで、そんなカオをするのだろう。

「…市丸、隊長…」

誰もいない隊長室。主を亡くしたそこは、酷く静かで冷たい感じを思わせた。
時間はまだ昼。窓からは少し朝よりも輝きを増した太陽がキラキラと笑みを零しているのだが、それをも飲み込んでしまうような冷たい灰色の部屋。
彼の居る場所は、こんな風に冷たく寂れた、廃れた場所なのだろうか。それともこの外の世界のように明るく煌びやかで、暖かい場所なのか。

市丸が去って、もう半年が過ぎた。
瀞霊廷はいつにも増して慌しい。それは、彼と一緒に藍染が持ち去っていった"崩玉"が開放されるときが刻一刻と迫っているからだ。2、3日前から厳重体勢がひかれ、各死神たちの斬魄刀無許可解放すら許可されている。あの白い壁がぐるりと瀞霊廷内を取り囲み、その中だけピリピリとした空気が感じられている。
その空気は大嫌いだ。まるで全ての死神が彼を消そうとしているようで――実際はそうなのだが――いつも彼のいた、隊長室に足を向けてしまう。

――どうしたん、。また誰かに苛められたん?

にこやかにそう軽口を叩いて、温かく向かい入れてくれる彼の姿も、温もりもの願望が映し出す残像でしかない。
この隊長室だけが瀞霊廷から切り離された異空間。束の間の安らぎと心地よさと、幻想を見せてくれる夢の場所。は静かに襖を閉めると、部屋をじっくりと見渡した。
片付け下手でしょっちゅう散らかっていた部屋。雑然と書類やら紙やらが、足の踏み場も無いほどに置かれている。はその一番自分の手前においてある紙を手に取った。

「…これって、締切期限もう過ぎたヤツじゃん…。何で総隊長に出さなかったのよ…」

自然と、そんな言葉が口から漏れる。そんな時、ちょうどいいタイミングで市丸が来て、苦笑いをしながらそれを手にするのだ。
「ごめんなぁ、忘れてしもうてて」そう言いながら、ひらりと白く"三"と黒々く書かれた打掛けをひるがえす。それが廊下の向こう側に消えるまで、ずっと見つめていたんだった。

けれどももう、そうやって苦笑する彼はいない。
両手を合わせて謝る彼の姿は見れない。
柔らかい関西弁の、あの声はもう聞けない。

不意に頬に温かいものが流れた。そう思った瞬間、ポトンとそんな音とともに書類に1滴、染みが落ちた。それを皮切りに幾つも幾つも、真っ白い紙の上に灰色の水跳ねが出来る。市丸の文字が、微かに滲んだ。
の身体が力を無くし、ぺたんとその場に座り込む。唇を噛み締め涙を止めようとしたが止まるはずもなく、まるで決壊したダムのように水があふれ出てきた。
やがて唇に微かに痛みを覚える。触れてみると、人差し指に赤い液体が付いた。



□ ■ □



最期に彼を見たのは、現世で虚を相手に戦っていたところに助太刀に来てくれたときだった。
そのとき既にはボロボロで、立っているのもやっとの状態。斬魄刀を振るう力もなく、虚が満足げに舌なめずりをしてを値踏みするような目で眺め回しているのを、キッと睨みつけるしかできなかった。

――小娘、抵抗はもうなしか。ククッ…まぁ、楽しめたがな
「…っ!」
――ただの悪あがきも面白い。しかし、わしの腹は空腹だ…その空腹、お前で満たせて貰うぞ!

虚の身体がの心臓めがけて動いてくる。ギラギラとした欲望の眼差しがに向けられていることを知りながら、それでも動かない自身にチッと舌打ちした。もう逃げることも、斬魄刀で魂葬をする霊力も体力もない。唇をぎゅっと噛み締めて、目を瞑った。虚の霊圧がどんどん加速して近付いてくる。唇が切れ、血の味が口に広がった――その時だ。

「僕の子を、あんまり虐めんといてくれるか――虚」

柔らかな関西弁が聞えたかと思うと、ズシャァ…と刀が虚の身体を突き刺し、血肉を飛び散らせた音が聞えた。
硬く瞑った目をゆっくりと開ければ風に舞う白い打掛けが鮮明に飛び込んできた。はためくそれには、確かに"三"と書かれていて、銀髪が風になびいている。

虚の声にもならない叫びをともに、その異形な姿は消えていく。やがて闇に呑まれるように姿を消したのを見届けてから、の前方に立っていた彼はくるりと180度身体を回転させた。
月の逆月光で表情はよく読み取れない。けれども彼が、いつも浮かべているあれをたたえているのは何となく分かった。

けれど、彼がの前に膝を突いて座ったとき、彼は少し怒りを滲ませた声を発した。

「何であんな無茶したん」

いつもの顔ではなく、目尻を下げ、言葉とは裏腹に哀しい表情で市丸は言った。
は一瞬驚いたように目を丸くしたが、やがて気まずそうに視線を逸らした。薄っすらと黒い死覇装に赤い鮮血が滲んでいる。市丸の視線がそちらに向いたことが気配で分かり、慌てて右手で押さえた。

「だ、大丈夫ですよ。これくらいの傷…」
「大丈夫なわけあらへんやろ。だったらなんでカタナ振らんかってん」

市丸の声は至極冷静でいつもの関西弁だ。しかし、口調は同じでもまるで尋問されているような感覚に陥る。は黙って市丸の問いに応じた。
彼は大きくため息をつく。、と彼が名を呼ぶ。はおそるおそる彼のほうへと視線をやった。

「正義感が強いのは知っとる。…だけど死んだらアカンやろ。無茶せんことや、ええな」

そう言うと、市丸は右手での頭を撫でた。冷たい彼の体温が、直に伝わってくる。見た目は線が細い彼の手もしっかりとした感触を伴っていて、彼は男性なんだと改めて頭の片隅で思った。
ガチャリと刀が音をたて、彼が立ち上がる。が何処へ行くのかと尋ねる前に、市丸が口を開いた。

「野暮用済ませてくるだけや。もうすぐで四番隊サンが来るさかい、じっとしとき」

そう言っていつもの笑みを見せた彼は、瞬歩で消えた。
――そしてその次の日、彼は三番隊から"反逆者"という汚名とともに姿を消したのだった。



□ ■ □



「ギン」

暗闇にそう語りかけた声は、いつもの自分の声よりも震えてか細い声だった。
彼の名前を呼んだのはいつの日以来だろう。此処に来てからというもの、"市丸隊長"というのがもっぱらの彼の呼び名で、下の名前で呼んだ記憶など一切ない。しかし、ギンは初めて会ったときから、と呼ぶのをやめない。

――響きが綺麗やね、

幼い頃の彼の顔が瞼に浮かんだ。その掴みどころのない、飄々とした笑顔と成長した彼の顔とが重なる。
瞳はいつもにこりとしていて見えない。彼と長年共にしてきたですら、彼の瞳の色を答えられなかったほどだ。

彼はその瞳で何を見てきたのだろう、これから何を見るのだろう。

「ギン」

結局最期まで、彼の瞳は見られなかった。
誰にも彼にも見せる薄っぺらい笑顔。その下で彼が何を考えているのか、何を思っているのか何一つ分からぬまま彼は去ってしまった。
まるでこの暗い部屋のように、全てを混沌の闇に呑み込ませたまま。

彼の心が知りたくないといえば真っ赤な嘘になる。
その瞳で何を見ているのか、何が見えているのか、何を感じているのか、何を思っているのか――全てが知りたくて堪らない。そんな少女染みた思いに気付いたのは、彼がいなくなったとイヅルに知らされた時だった。
――否、そんな想いは当の昔から知っていた。けれども彼があまりに飄々としすぎて、すぐさま離れていく気がし、忘れようともがいていただけだ。ズルズルと時間が過ぎ去っていっても、彼はきちんと、の隣りに居たのに。

忘れたくても、忘れられない彼の笑み。
瞬間接着剤で記憶にくっついてしまった、彼の顔。

何度呼べばこの想いは昇華されるのだろう。何度彼を想えばこの想いは消えるのだろう。
気が狂ったようには静かな隊長室で市丸の名を呼び続けた。泣き叫ぶ声は無常にも暗闇へと吸い込まれて消えていく。そんな事をしても市丸が帰ってこないことは、片隅で分かっていた。けれども、呼ばずにはいられない、彼の名。

「ギン…っ!」



「どないしたん?そんなに俺の名ぁ呼んで」



関西弁のイントネーションが聞える。はびくりと身体を震わした。
聞えるはずのない彼の声。幻聴なのかもしれない、けれどもやけにリアルに聞えたそれは確かに彼のものであり、彼以外に出せるはずがない。
は座り込んだその場所から、ゆっくりと視線を後ろへとやった。

襖が開けられ、長身の体躯が真っ黒な影として映る。隊長室の外の明りが眩しすぎて、目を細めなければよく見えない。それでもその光りに反射する銀髪が微かに揺れているのが分かった。
目が慣れてくるのに数秒ほど要したが、そこには今さっきまで呼び続けた姿が平然とそこにあった。そして、彼の衣服に染み付いて間もない鮮血と、廊下に横たわる三番隊員の屍も。

――いつもの貼り付けた笑みを浮かべた彼の死覇装が風に吹かれて、揺れた。






嘘の微笑みではなく、本当の、微笑

混沌の闇を照らす光に私がなれるなら
私は貴方の手を少しも躊躇せずに取るから