いて

「泣いてへんよ」

 月明かりの下で、ギンが言った。

 欄干に腰を下ろして三番隊の詰所の庭を眺めている横顔は、生気がないように思えた。寂しそうに丸めた背中は、いつもの彼から想像も出来ない。

「笑ってるようにも見えません」

 静かに告げたを見て、ギンが今にも消えそうな弱い笑み見せた。

「そない心配せんでも、ボクは旅禍にやられたりせぇへんよ」
「心配しなければならないほどあなたは弱くないでしょう。むしろ気がかりなのは、雛森副隊長と日番谷隊長ですよ。悪ふざけするのもいいですが、ほどほどにしてください。藍染隊長が亡くなられた今、死神同士の争いをしている場合じゃありません」

 は踵を返す。

「失礼します」

 一言残して去ろうとした背に、「待ってや」とギンの声がかかった。

「待てません。必要なら捕まえてください」

 は足を止めずに──振り返ることもせずに、廊下を歩んでいった。

 ★

「ほんまに、泣けるもんなら泣いてしまいたいわ」

 一人きりになった空間で、ギンは呟いた。

 もう藍染が立てた計画は実行に移っている。だからこそ戸惑うのは、自分は彼女から離れてしまうのだという現実感が漂うからだ。

「いつからやろう」

 いつから、彼女は他人行儀になったのだろう。前はあんな風に、敬語も使わなかった。自分の隊の席官でありながら、自分のことを隊長とは言わず常に名前を呼んでくれていた。特別な間柄ではなかったにしろ、そこまで親しくなったのだ。なるように努力したのだ。なのに、何もなかったような顔で、彼女は今はもうほかの隊にいる。

 他の隊へ異動願いを出されたのがついこの前のことだ。その頃にはもう、彼女は他人行儀だった。今までなら「」と呼んでも咎められなかったのに、今呼べば、「感心ならない」と言われる始末だ。イヅルのことだって呼び捨てなのに、と言うと、男と女では違うと彼女は言う。

 なぜこうなったのか、考えてみたところで思い出せない。ゆるりと顔を上げる。空は雲が出ていて星など見えなかった。ギンは欄干から廊下へ降り立つと、誰もいない深閑とした廊下を見渡した。

 もう、彼女の気配はどこにもない。

 せっかく立ち上がったというのに、立っていることがしんどくなって、欄干に凭れながらその場に座り込んでしまう。ギンはくしゃりと自分の後ろ髪を掻いた。

「──

 名前を口にしてみる。一人きりにならないと口に出来ない名前だから。

「──追いかけるなんて、ボクにはもう無理やねん」

 追いかけて、手を取って、連れ去ってしまえるものならそうしたい。

 それが可能か不可能か。

 考えただけでため息が零れた。

「もう、何もかも遅いねんなぁ」

 そう呟く声は夜風に流され、聞く者は誰もいない。

 ★

はきれいや。ほんまは、こんなとこいてほしくない」

 が三番隊に配属され、席官に上がったころ、ギンと急激に親しくなった。互いが互いのことを本当にどう思っているかなど、探ろうともしない。ただギンはを誘い、はギンの軽口につき合うだけ。どちらが本気になっても負けのような火遊びを、日常の中で味わっているようなものだった。

「そういう軽口が誰にでも効くと思ってるの?」

 書類を片づけながら、が言った。今宵も、ギンに呼び出されたのだ。残業を手伝うことを名目に、執務室で彼はを口説く。

「嘘や思うやろ?」

 ギンは笑って問う。

「嘘ちゃうねんで。ほんまに思ってるねん。ボク一人だけのもんにしたい」

 今度はが、呆れたように笑んだ。

「生憎、私はギンひとりの手に負えるような女じゃないの」

 淡と告げて書類を総て片づけた。

「終わったから戻ります。お疲れさまでした」

 一礼して、は部屋から出た。



 懲りず誘うギンを突っぱねることなく悪ふざけで終わらすのは、心地いいからだ。そうするうちに、己をひとりの死神ではなく女として扱う男が愛しく思えてくるのだ。けれど深みにはまってはいけないという理性があと一歩を踏み止まらせる。

 それでよかった。所詮、相手は隊長である。しかも、態度は軽く口の上手い、男。本気になるだけ馬鹿馬鹿しい。

 ただ──こんな日がいつか終わるかなどは考えていなかった。ギンがを誘うことに飽きるまで続く気がしていたのだ。

 けれど、事態は変わる──。

 歯車は、の知らぬところで狂い始めていたのである。

 ★

 朽木ルキアに現世滞在の命が出た頃だ。夜のうちに認めた書類を片手に、は足早に三番隊執務室へと向かった。

「なんや、これ。どういうつもりなん?」

 朝一番で執務室へ訪れたは、ソファに座っていた自分の所属する三番隊の隊長、市丸ギンに異動願いの書面を叩きつけた。

 案の定、ギンは驚きを通り越して怒りを潜ませた目をに向けた。書類を受け取ることもしない。

「今日づけで異動をお願いします。出来れば十一番隊を所望しますが、空きがないのならどこでも構いません」

 どんな風に睨まれても動じない。覚悟や決意がそれを防いでくれる。微塵にも、恐怖や不安はなかった。これからのことを思えば、今この瞬間が恐怖になり得るはずもない。

「どういうつもりやって聞いてんねん」
「一身上の理由です」
「そんなんは、理由にならへんよ」
「その理由で異動の許可を出したときもあったじゃないですか」

 がそう言いきると、ギンは俯いて黙り込んだ。予想の範疇とはいえ、ギンがこうなってしまうのは自分が作り上げる結果のための過程だ。心苦しさがないわけではない。

 空気が重い。まるで窓も換気扇もない密室に押し込められたように息苦しささえ覚える。

 ややしてから、ギンが動いた。

 俯いたままの彼の手が、の手から書類を取り上げる。

「──

 名を、呼ばれた。書類を掴んだ手が、書類を持ったままの手首を掴もうとする。

 はギンの手から逃げるように数歩下がった。

「そうやって特定の個人と、職務中に親しくしすぎるのはよくないと思いますよ」

 冷たく、突き放した。名を呼ばれたところで、もう何の感情も湧かない──何も思わないと決めたのだから。

「──茶化すのはやめて。なぁ、。ボク、何か悪いことした?」
「市丸隊長。自分で悪いことをしたか、なんて聞けるのは、何をしたか自分で判っているからですよ」

 ギンの顔がゆるりと上がる。

 弱々しい視線が自分を見つめた。

 今すぐに抱き締めたいと思わせるくらい愛しく思う気持ちが蘇る。

 同時に、それすら彼の演技だと思えてしまう醜い自分が──いた。

「──判った。手続きはしとくわ」

 それが合図だった。ギンが気を落としたように告げた言葉が。

 は踵を返す。そうして、執務室を出ていく。もう、用はない。この部屋にも、彼にも。

 なのに、部屋を出た途端──、急に旨が苦しくなるのを知った。

 二度と顔を見ない──と、彼が承諾するのを境にけじめをつける。そう決めて、ここまできたのに。

 何をしているんだと、思った。何を躊躇う必要があるのだろう。

 今ならまだ取り消せるという気持ちが浮き上がって、その気持ちを掬い上げる前に頭をゆるりと振った。

 三番隊隊長である市丸ギンが、五番隊隊長の藍染惣右介との間に不穏な空気を見せているのに薄々感じていた。もともとギンは藍染の副官を務めていた頃があるはずなのに、あの不気味さは何なのだろう。

 ギンが何を考えているのか判らない。判らないが、予感はする。



 波紋が広がる。不吉な波紋が。

 その中心にいるのがギンなのか、それとも違うのか──判らない。藍染に向けるギンの言葉はまるで謀反を起こしそうな気さえ抱くけれど、まさかという気持ちがある。同時に、まさかと思う気持ちをうち消すように、十番隊の天才児の存在があった。彼がギンに目をつけているのも、仄かには感じとっていたのだ。



 ギンの元から離れるのも、ひとえにそれらが理由であった。

「生憎、私はギンひとりの手に負えるような女じゃないの」

 ある夜、自分はギンへそう告げた。

 しかし、違うのだ。

 ギンこそが、自分の手に負える男ではない。

 その思いがをギンから遠ざけるのである。

 ★ 
 
「できればきみに、しっかりと断ち切ってからきて欲しいんだけどね。きみにはそれが出来ると信じているし」

 四十六の死体が見渡せる四十六室で、藍染が笑った。

「ボクが何を断ち切らなあかんて言わはるん? 心残りなんて何もないで」

 ギンはどきりとしながら常の笑みを浮かべて返した。まるで今し方、廊下の欄干に座っていたときのことを見られていたのではないかという焦りが静かに湧き起こる。

 それだけならまだしも。

 のことに気づいているのだろうか、この人は。

「本当に?」

 見透かしたような目が、ギンを射抜くように見た。

「イヅルのことだって利用はしても連れて行く気あらへんし、罪悪感もないわ」
「それならいいんだけどね。余計な心配はしたくないんだよ」

 眼鏡の奥にある藍染の瞳をギンはじっと見返す。目を逸らせば余計な疑いをかけられそうな気がしたからだ。

「──計画が進んでるのに、ボクが余計な心配ごと作るとでも言わはるん?」

 藍染が口許だけで笑った。

「私は雛森くんを切り捨てる。きみは──くんを切り捨てられるのかい?」

 突然のの名前にギンは心臓が一度大きく高鳴ったのに気づいた。

 殺せと。

 自分に命ずる。

 殺せ。

 気持ちなんて殺してしまえ。

 感情なんて捨て去れ。

 自分が大事に持っていても、彼女との関係は修復できないのだ。そして自分は、これから先、二度と彼女を追いかけられないのだから。

「──勿論や」

 冷たい笑みが頬に乗った。

 そして外へと通じる扉に向かって歩き出す。必要なことは先に話した。これ以上話をするのはいずれ感情をさらけ出してしまいそうで恐ろしい。

「ほな、ボクは次の仕事せなあかんから」

 藍染の返答など聞かずにひらりと手を振って、四十六室をあとにした。

 ★

「泣かへんよ」

 今宵も欄干に座り込んで、ギンはひとり零す。

 藍染が生きているということも、これからの計画も、決してばれてはならない。

 総てが明るみに出る日──死神たちは自分たちの前に立ちはだかるだろう。

 は。

 彼女はどうするだろうか。

 自分についてくることなどない。それは決して、ない。

 もしも、自分へ直接刃を向けるというのならば。

 ギンは一度だけ頷いた。

 そしてその刹那に、穏やかに笑んでいたの顔が過ぎり、急に冷たくなった彼女の声が頭の中に響いた。斬魄刀を握ることになる手を見つめて、押し殺した心の内を思って、不意に失っていくものを考えた。何一つ、もう戻らない。

 強い風が吹いた。

「どうなったって、後戻りできへんから。だからせめて、苦しむことないように、してあげる」

 二度と寄せ合うことができないの心──思いは深く沈み、届かぬ思いと共に声は夜風に渫われていった。




企画 [Epicurean]さま
参加させて頂き、どうもありがとうございました。


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